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元プロボクサー世界チャンピオン 畑山隆則氏が、高木企画一級建築士事務所の高木代表に、経営に関する質問ジャブをくり出し、高木代表がストレートで回答する楽しい経営者インタビュー、第一ラウンド開始!


設立     平成30年8月10日

登録     大阪府知事(イ)第25495号

住所     546-0003大阪市東住吉区今川4-10-1

代表     高木正彦(一級管理建築士116620号)
電話     090-1482-6982
Mail      takajii71@yahoo.co.jp
URL     https://takagikikaku.jimdosite.com/

企画     名刺、絵手紙、ホームページ
             チラシ、イベント企画
             
建築     公共建物改修工事 工事監理
             リノベーション ・竣工図(JWCAD)

              建物定期報告書・長期修繕計画

            
強味    個人事業なので、大手企業のように
            利益を追求する必要が なくお客様の
            ご相談 に乗れます。
 

弱味     平日は工事監理の仕事が詰まって
             いますので、新規のご相談は
             土日祝日とさせていただいてます 


                   代表者      高木正彦

兵庫県芦屋市出身、72歳、O型、既婚
家族構成 妻が約1名、トイプードル1匹

大阪工業大学工学部建築学科卒業、
大手ゼネコン大成建設グループの
大成プレハブ株式会社に入社、
工事・見積・営業・企画・電算と
建設業全般の技術と知識を習得し、
転職後は、住友不動産株式会社や
JR西日本不動産開発株式会社など
大手デベロッパーで「分譲マンションの
アフターサービス」「工事監理」など従事。

人手は欲しいが、正式な社員として雇ったら、社会保険費もいるし・・・仕事のない時も給料は払わなくては・・・そう悩んでる建設業経営者の皆さん、

必要な時、必要なだけ、建築関係資料の作す図面の修正、スポット現場管理、数量拾い、こうした雑用を時給2000円でご支援出来る高木企画一級建築士事務所をご利用ください


実績(建築の部 抜粋)

令和2年2月

株式会社前田都市設計様
鴻池水みらいセンターアスベスト除去工事
工事監理


令和元年11月

株式会社前田都市設計様
大阪府住宅供給公社長滝住宅
アスファルトシングル葺替え工事
工事監理


令和元年8月

有限会社 リホームナガオカ 様
茨木市山野邸、木造2階建て300㎡
リノベーション図面作成

平成31年2月

株式会社 ARTESA 様
芦屋市、社会福祉法人三田谷治療教育院
長期修繕計画工事費算出の資料作成支援。


平成30年9月

株式会社 いしばし 様
大阪府堺市、堺東コーポ(マンション)
建物定期報告書の作成と申請手続き。

実績(企画の部抜粋)

写真/執筆/団扇/絵手紙

日本プレハブ建築協会が出版する業界誌の
見開きコーナーの「ひと・まち・百景」
関西見所を制作担当した時の作品です。

お得意様

アイウエオ順

株式会社 ARTESA

株式会社 いしばし

伊予屋食品 株式会社

上田産業 株式会社

大阪市東住吉区役所

お好み焼きお多幸

株式会社 コーリツ

カラオケ喫茶 さくら

株式会社 澤田工務店

株式会社 太陽ビルマネージメント

カラオケ喫茶 千扇
カラオケ喫茶 ホワイトレディ

のものも まどか

株式会社 前田都市設計

有限会社 リホームナガオカ

前田孝八郞

祖父 高木正夫
1973年3月(昭和48年3月)逝去
京都帝国大学卒業、大阪鉄道局運輸事務所長、昭和13年、日本通運株式会社の大阪支店長、常務取締役に就任、昭和25年6月参議院選挙にて
全国区第2位で当選、会派は緑風会に所属。

父 高木武彦
1990年3月(平成2年3月)逝去
大阪商業大学(現大阪市立大学)卒、鉄道管理局から日通航空札幌支店長、主要な団体顧客の海外旅行添乗員として同行。

1947年11月(昭和22年11月)
兵庫県芦屋市にて誕生、長男誕生に親父は喜こんだ。祖父「正夫」と父「武彦」の二文字をとって「正彦」と命名。

1954年4月(昭和29年4月)
東京都港区立笄小学校に入学。

1963年4月(昭和38年4月)
兵庫県立芦屋高校に入学、秋祭りで、西郷輝彦の『星のフラメンコ』を演奏、今は足腰が弱くなり『腰のフラメンコ』を絶唱

1966年4月(昭和41年4月)
大阪工業大学工学部建築学科入学
よく勉強した(笑)「卒業したら10年に一度、必ずこのメンバーで会うことにしよう」そう約束をしてそれぞれの道に進んだ。結局世話好きな私が幹事役となり、いまでも10年毎に再会しているが、悲しいかな平成19年一人喉頭癌で亡くなった。

1970年4月(昭和45年4月)
大成ユーレック株式会社の前身大成プレハブ株式会社に入社。戦時中焼失した家屋を含め、終戦直後に日本全国で不足する住宅戸数は420万戸、この膨大な数の住宅を早く建設することが国家的課題であった。そのために昭和30年、日本住宅公団が設立され、大成建設の協力を得て工場生産方式による工業化住宅(量産住宅)を開発し、母体の大成建設から独立し量産住宅建設のパイオニアとして誕生したのが大成プレハブ株式会社である。

1989年4月(平成1年4月)
大成プレハブ株式会社代19代組合執行委員長に書記長は親友久保信之氏の最高コンビ。当時複数あった組合の壁を取り除き、1000人の全労働者の為に会社と戦った。組合機関紙の発行部数はおそらく歴代第1位であっただろう。この時身につけた安全・衛星・労務に関する知識が将来自分がリストラにあった時、会社に対して堂々と戦いを挑む原動力となった。

1991年4月(平成3年4月)
企業も手書きがほとんどで対外的な書類作成はタイプライターで事務員に打ってもらっていたまだパソコンもない、いやあっても何に使えるのかわからない時代、
大成プレハブ株式会社(現大成ユーレック)関西支社に初めて電算課が設立され、初代電算課長に就任、管理職への仲間入りと新しい部署の設立というダブルプレゼントに歓喜。高木正彦まさに男盛りの時期であった。

1998年12月
1990年代後半の金融機関の破綻の影響で、貸し渋りが起こり、不動産や建設にカネが回らず、業界は不況が続き大成プレハブ株式会社も体制を立て直すために、早期退職制度に踏み切った。
第1回は退職金とは別に年収の3倍を支給、第2回は退職金とは別に年収の2倍を支給、第3回は退職金とは別に年収の2倍を支給。
給料は減っていくかといって辞めても就職口がない、残るか辞めるか・・・皆悩んでいたが、私は電算で身につけた知識と技能に自身があったので一番に手をあげて退職した。

1999年3月
失業給付というのは『仕事をする意思があるのに仕事が見つからない人』に、見つかるまでの繋ぎとして支給されるものである。制度そのものは非常に良いものだが、その運用方法は問題が多いと思う。長年当人が給料の中から差し引かれてきた金だから、失業時に全額払ってやったらいいではないか『もらうものさえもらったら早く次の仕事を探そう』普通の人なら当然そう考える。なのに、それを毎月失業安定所に出向き『探したけど、仕事がありませんでした』なんて顔をして1ヶ月分づつ支給してもらう仕組みになっているからもらえるなら、秋までしばらくゆっくり静養しよう』と考える人が大半だと思う。失業率が高い原因のひとつにはこんな制度上の問題もある。

1999年4月
人材派遣会社から『株式会社ジャパンというディスカウントストアの会社が電算部長候補を募集しているので面接してみませんか』という電話があり、面接を受けることにした。面接は会長で、履歴書にさっと目をやって、いろいろ質問をしてきたが『駄目で元々』と開き直っていたせいか、緊張もせずマイペースで『これからはインターネットの時代、私ならこうする』と自分の意見を述べると会長は一瞬『むむむ・・・』と目を落とし一通り話が終ると『明るいし、男前やしな・・・通勤が遠いけど大丈夫か?』と念を押された。

1999年5月
それから数日後、インターネット事業部門への採用通知が届き、初出勤は5/17となった。自営業は断念し再就職することにした旨を報告した恩師から『中高年の再就職が難しいこの時期に立派な会社に就職出来たことは、若ければ有利、中年は不利という定説を覆し、どういう能力を持っているかが問われていて年齢は関係無いということを君は立証してくれた。おめでとう』というメールが届き、目頭が熱くなった。


1999年5月
入社初日、配属先のスタッフに会わされた。その中には吉本興業の漫才コンビであるどんきほーてのきびのだんご氏がいた。パソコンが好きでインターネットに興味を持ち、吉本興業で漫才をしながら、パソコンの勉強をし、ジャパンのインタネット事業立ち上げを支援してくれていた。一度喧嘩をして「所詮アルバイトの分際で何を言うか!俺のやり方がいやなら吉本興業を止めてこい」そう言ったら本当に吉本興業を止めてジャパンに入社してきた。ドキッ!振り返れば楽しい思い出。

1999年7月
この頃から『IT投資』『ネット通販の電子決済』『企業の合併』等が新聞紙上を賑わすようになってきた。こうした時代背景もあって、ジャパンも生き残りをかけて新組織が『通販事業部』が発足し、私は通販事業部長という役職につくことになり楽天市場というインターネットショッピングモールにDSジャパンという店名で出店させた。自分達が写真を撮り画像処理をした商品に注文が来るというのは実に楽しいものである。

2000年4月
ディスカウントのジャパン・生鮮スーパーの光洋・コンビニエンスストアのサンクス・ソフトバンクの出資による資本金は1億円のインターネットショッピング会社「eジャパンを設立」記者会見の帝国ホテルには約100人の報道陣が押し寄せた。そして取引先の二十歳の青年が、社長に就任し私は出向して実務につくことになった。事務所はジャパン大東店の一角、注文がきたら大東店の商品を使う。在庫を抱える倉庫もいらない、よく考えたものだ。人生は筋書きのないドラマとはよく言ったものだ。

2001年10月
出向解除で戻された部署は情報システム部。
誰でもパソコンは使えるだろうが、ハードディスク内のデータの復元やパソコンの故障ともなるとそう簡単には出来ないものである。130店舗のパソコンが故障する度に修理に行く。パソコンを修理できるなんて神様・・・と思っていたが、コツがわかったら案外簡単なものである。

2003年11月
人事部と上司に呼び出され「会社の期待に応えていない」という理由で解雇通告を受けたが①社員を解雇する場合はまず役員が自らの報酬をカットする②派遣社員を切る③希望退職を募る④配転を考える最低でもこの手順を踏まなければならないまた⑤目標管理制度を自分で作っておきながらそれを以っての説明がなく単なる気分で話している、こんな解雇通告は問題外おまけに⑥就業規則の解雇に該当する理由がない⑦私が社員であるのと同時に株主であることを忘れている。以上の理由で「今回の解雇通告は社会通念上相当なものでない」と一筆したため「出るとこへ出ましょう」と開き直った。その結果、解雇は取消しとなり、私を解雇しようとした人事部長は辞めされ退職した(笑)。

2005年8月
朝日新聞に「住友不動産が販売した竣工済分譲マンションアフターサービス」の求人が載っていたので早速応募したら、後日面接に来るよう連絡が入った。リラックスしていたのか。数日後連絡が入り正式に採用決定となった。仕事柄お客様に頭を下げることが多く、若い人には長続きしない仕事であるが「頭を下げたらお金がもらえる」そう割り切って仕事をすることにした。「住友不動産の高木でございます。先程は電車の中でしたので失礼をいたしました。はい、あと30分ほどでお伺い出来ます」

2007年3月
プロでなければ出来ないだろうと思われることに挑戦するのが好きな性格で、歌手ではないが、CDを制作して出来たら販売したいと思い、十八番を吹きこんだ。しかし、高木正彦のすべてなどよくあつかましい名前を付けたものだ。

2008年8月
名刺・挨拶葉書・携帯サイトなどの営業種目に加えて、将来の顧客獲得の布石として「趣味人倶楽部」というサークルに入り、イベントの企画などをしながら友達を増やしていくことにした。時にはバーテンを頼まれたり(笑)。

2010年6月
母が住んでいるマンションは私と亡父と共同名義で購入し、父が他界してから父の持分を兄弟合意の上で遺産分割協議書を作成し、父の持分は母名義に移転したが、「私の区分所有分も母の名義に書き換えろ」と裁判を起こした。自分がお腹を痛めた一人息子を裁判にかけるなど・・・なさけないと思ったが、訴えられた以上、こちらも受けて立たざるを得ない。
「遺産分割協議書に印をついた時の解釈の仕方が全員違っていたなら、その遺産分割協議書を破棄て新しく作り直したらいい」と提案し、それで決着はついたが、親子の縁は切れた。本当なら今頃は私が世話していただろうに・・・